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しんさん


私が学生の頃、日本人学生を世界各国に1人送る奨学金制度が始まり、

第1回目の募集で、私が留学したかったパキスタンには全国で応募が2人。

一人は私、もうひとりは私の後輩。


後輩にはどうしても私はパキスタンに留学したい、と軽くプレッシャーをかけておき、

簡単な面接だけで奨学金を手に入れた。


留学ビザがなかなかおりず、出発前も大変なことはたくさんあったが、

なんとか日本を出発して留学先のカラチに到着。


日本領事館の方に大変お世話になり、

ホームステイをしながら大学入学の準備をすすめた。


大学の入学手続きに行ったところ、日本からの留学生ということで学部長から大歓迎され、

外国人学生が登録をする場所を教えてもらった。


早速、事務所に行き名前を伝えると

「お前は誰だ?HAYASHIなんていう留学生は知らない。」

と言われ追い返されてしまった。

学部長の歓迎と事務所のギャップが激しすぎた・・。


後で、パキスタンの留学ビザはとても手続きが難しいことを知った。


私がパキスタンに留学できるよう日本で助けてくれた外交官の方は、

正規のルートでは留学ビザを取得することが難しいと判断したようで、

パキスタン本国から許可がおりていないのに私にひっそり留学ビザを発行してくれていた。


その事実を知らないままパキスタンに留学していたらしい。


毎日毎日、大学の事務所に通って確認やお願いをしても、

やはり私の留学許可はおりていないと言われ追い返される。


3週間経って私はブチ切れた。

事務所の担当者に

「お前の名前をこの紙に書け!そしてその紙を持って日本領事館に行き、

この人が邪魔をして大学の入学手続きができない、とクレームを出してくる。」

そういってメモ用紙に名前を書いてもらいオフィスを出た。


翌日、あっさり入学が許可され学生証をもらうことができた。

なんとなくこの国のやり方がわかってきて、今度は学生寮に入る手続きをした。


事務所と同じで部屋はないの一点張り。

1か月毎日しつこく通って、またブチ切れたら(学生証と同じパターン)、

1つ部屋が空いていると見せてくれた。


牢屋のようなコンクリートの部屋。

鉄格子で窓は覆われ、窓ガラスは割れていた。

脚が3つしかいない壊れた椅子がなぜか部屋の真ん中に1つおいてあった。

壊れた椅子がポツンと置いてある窓ガラスが割れた8畳ぐらいの四角い部屋。


きっとこの部屋を見せたら諦めるだろうと考えたのだろうが、

私は喜んで

「この部屋に住みたい!」

と伝えた。

本当にここでいいのか?

と相当びっくりされた。


こうして、人生初の一人暮らしは牢屋のような部屋で始まった。



冷蔵庫、洗濯機、テレビなどもちろんなく、蛍光灯すらなく、トイレもシャワーも共同。

何一つ欲しいものはなかったが、初めての一人暮らしというテンションだけが私を支えていた。


部屋を手に入れた私は寮で仲良くなったケニア人学生と一緒に夜な夜な大学に忍び込み、

使われていない壊れた机やイス、ベッドを部屋に運んでは修理して自分のものにした。

「これは盗みではない、壊れたものを直してリサイクルしているだけだ。」

と自分に言い聞かせた。


蛍光灯がなかったのでロウソクの灯で勉強した。

割れた窓ガラスは段ボールでとりあえず穴を埋め蚊が入らないように応急処置をした。


時間があるときにドリルを借りてコンクリートの壁に穴をあけて蛍光灯をつけたり、

蚊が入らないように網をつけたり、牢屋が少しずつ部屋らしくなっていった。


蛍光灯の電気がついて明るい場所で勉強できる感動を私は今だに覚えている。



生活拠点はなんとか確保しても、精神的につらいことがあった。


それは毎日のように至るところで、いろんな人から日本に行くためのビザをくれというのだ。

そして全く知らない人に保証人になってくれと頼まれたりもした。


日本のビザ取得はとても大変で、申し訳ないけどビザも申請できないし見ず知らずの人の保証人になることもできない。

と何十回、何百回も伝えた。

日本のビザのことだけは現地のウルドゥー語で流暢に説明できた。


「こんな言葉を話すために、この国に語学を学びに来たのだろうか・・。」


時間が経つにつれ、日本のビザは取得できないと説明する言葉や自分自身の態度に嫌気がさしていた。


ある日、

「タイからきた留学生はノイローゼになって帰国してしまった。

不自由ない生活ができる国からくるとこの環境は過酷すぎる。精神がまともなうちに帰ったほうがいいよ。」

と私のメンタルを心配してくれていた友人に言われた。


奨学金をもらい留学期間は1年。

はたして1年間、ここで生きていけるのか。


私は1年間、留学する自信が全くなかった。


留学を途中でやめたときに、奨学金を返せるようにとっておこう。

いつでも帰国できるように半年近く、奨学金には全く手をつけなかった。



夏休みになり、以前から憧れていたトルコとギリシャを1か月ほど旅をした。

当時としてはエーゲ海をクルーズしたり贅沢な旅をしたと思う。

奨学金余っていたし・・。

何一つ不自由がない旅をして、パキスタンに戻ってきた。


1か月ほどの旅を終え、寮に帰るとスタッフや友人が驚きと笑顔で迎えてくれた。

「HAYASHIが帰ってきた!」

「ジャパニがカラチに戻ってきた!」


もしかしたら、私がパキスタンから逃げ出してもう戻って来ないと勘違いしていたのかもしれない。


不自由が何もなかったトルコやギリシャよりも

不自由だらけのパキスタンが好きな自分に気が付いた。


住めば都。


留学した当初は日本からきたよそ者だった。

でもトルコ・ギリシャから帰ってきた後、カラチの住民になっていた。

まわりが私を受け入れてくれていたのも、パキスタンの外に出て初めて感じたことだった。



もうひとつとても大きな心の変化があった。


私はずっと、パキスタンの悪いところばかり見ていた。

パキスタンという国は悪いところに目を向けると、日常的にテロや過激なストライキがある国だったので、

いくらでも悪いことを言えてしまう。

でもそれ以上によいところがたくさんあるのに、よいところには目を向けようとはしなかった。


例えるなら、100の要素があったとして、その1つでも2つでも悪いところがあればそこを徹底的に叩き、文句を言うような感じだ。

でも嫌いになるのではなく、好きになるには100の要素の全部を好きになったり受け入れないといけない。


パキスタンに限らず、どんなことでもNOというよりYESという方がはるかに難しくかっこいいと思うようになった。


盤上のオセロの色が一気に変わるように世界が変わってみえた。


それからは、パキスタンの悪いところよりも良いところばかりを見るようになり、

あれほど嫌だったビザの説明もいかに相手が笑うような説明をするか、

と事実よりも笑いを優先する説明に変えたら全く苦にならなくなっていた。


夏休み明けの後半は、状況は何も変わっていないのにパキスタンでの留学生活は楽園にいるようだった。



パキスタンの留学を経験して、私は2つ人生の宝物を手に入れた。



ひとつは、何があっても諦めなければ絶対なんとかなると思えること。

これから起こる人生でパキスタンでの経験より大変なことはまず起こらないと思う。


もうひとつは、NOよりYESを言う方が難しく、YESを言う人の方がかっこいいと思える自分になれたこと。



パキスタンに留学していなければ今の自分はない。

あのときの体験が私の体や記憶のどこかに残っていて、

ヨルダンのレースを走ろうという無茶苦茶な誘いに、

YESと言ってしまったのかもしれない。


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